脳幹出血からの帰還10 退院とその後(3)
我が県出身の有名なプロレスラー、故橋本真也氏も脳幹出血で亡くなっていました。病院でもらったか見た文書で自分の病名は知っていたのでそれで検索して出てきた彼の名を見た覚えがあります。私は(同世代間では珍しく)プロレスには詳…
我が県出身の有名なプロレスラー、故橋本真也氏も脳幹出血で亡くなっていました。病院でもらったか見た文書で自分の病名は知っていたのでそれで検索して出てきた彼の名を見た覚えがあります。私は(同世代間では珍しく)プロレスには詳…
感謝とお詫びと 退院後は様々な人に会って、感謝とお詫びをしていますが、その中で知った事情も少なくありません。彼らが入院中の私を知らないと同じく、私も病院外で何が起こっていたか、ほとんど知りませんでした。自分がのうのうと…
驚く家族 退院の報を受け、家族が一番驚いたようです。それもそのはず。一時はいのちすら危ぶまれ、その後も後遺症で全く動けない寝たきり生活等も覚悟していた(「生きているだけで丸もうけ」が合言葉だったというのだからそうだろう…
「快適」な病院生活・独歩 1月末頃、回復期リハビリ病棟への移転が決まる。ここからの病室生活は言い方は変だが「快適」だった。病室は窓際のため、近くには運動施設や学校、遠くには子どもの頃から見てきた山々という具合にいい眺め…
回復のペース/車いすから歩行器へ 1月下旬以降の回復のペースは(周りの想定以上に)速いものだった。1月の終わり頃には車いす移動から歩行器に変わる。はじめはこわごわ歩行器に頼って歩いていたが、数日で歩行器が邪魔と言うくら…
体重激減・自分で歩き出す 入院生活が1ヶ月を過ぎるころ、歩行訓練を始めた当初は満足な方向すら向いていなかった左足が、力をつけ始めて歩み始めた。といってもまだ本来の力はない。この頃のやせ細った脚をみて自分で驚いている。リ…
初期の頃(私にとっての初期とははっきりとした記憶のある1月中旬以降)は絶望のほうが大きいものだった。寝たきり、何をするにもナースコールが必要、おむつをはき、下の処理もすべてお願いする立場だった。 絶望の中の希望・リハビ…