進む教育のデジタル化 普及率9割超 効果の一方 想定外の事態も | NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250629/k10014847471000.html
「字を書く機会が減り、文字が丁寧に書けない子どもが増えている」という声が教員の間から多く上がるようになったのです。
そこで、学校は文章を読み書きする機会を増やすため、国語の授業で10分間、教科書の文章をノートに書き写す「視写」という時間を設けた
先日も教育のデジタル化に関して中日新聞の記事を取り上げたが、それと同じような感じの記事。
こちらはNHKらしく「二項対立でなくバランスをとって」という結論で終えている。
この問題、デジタル化の問題でもあるが「効率よく学ぶ」こと全般の落とし穴でもあるように思う。
効率を良くするために切り捨てていることに大事なことはないのか。
手放しで「昔からやっていることのほうがすばらしい」と古いものを礼賛したりはしないが、効率化する=何かを切り捨てるときには慎重に切り捨てないと、メリットよりもデメリットのほうが大きくなる。
それにしても、
>学校は文章を読み書きする機会を増やすため、国語の授業で10分間、教科書の文章をノートに書き写す「視写」という時間を設けた
このくだりには思わず膝を打った。
弊塾ではもう20年、視写とは呼んでいないが「文章筆写」というものをやっている(授業中でなく宿題にしているが)。
20年前には今日ほどICTは発達していないので、導入したきっかけは違う。
「国語力強化」の一環として始めたものだった。
さまざまな文章に触れて語彙を広げる、様々な表現に触れることで言い回しや論理展開のパターンを知る、それが彼らには大事だと思ったのだ。
導入当初に私が書いた文が今も残っている。
伝統芸能の世界ではまず基本的な「型」を身につけ、それから「型」を崩しながら芸の幅を広げていく。
そんな過程に似ていると書いた。
初めから型がないのは「型破り」でなく「形無し」であるという誰かの名言も紹介した覚えがある。
文章にあまり触れていない生徒が、放っておいても筆が立つ人になっていきなり個性的な文章をつらつら書くなどというのは難しいと考えたのだった(当時は教育に「個性」の重視が叫ばれ出した頃だった)。
文章筆写は今も続けている取り組みだが、こんなところで時代の先を行くことになるとは。
弊塾が文章筆写を始めた頃は、世間で筆写がちょっとしたブームになるよりも前のことだった。
その後、世間でも新聞のコラムを書き写す取り組みなどが紹介されるように。
先日も書店で見かけた気もするし、今もあるはずと思ったらあった。
何度も書くが、弊塾はこういう動きよりも先に始めていた。
時代の最先端を行く賢学塾!?
いや、時代の先を行っているのではない。
大昔から教育現場では「書き写す」作業に取り組むというのはあったのだ。
弊塾はたまたまそれをやったに過ぎない。
ICTが今日のように普及する以前から、勉強をいかに効率よくやるかというムーブメントはずっとあった。
そういう流れの中で、特に効率化志向の生徒には「なんで文章など写すのか分からない」と思われたりもしたこともあっただろう。
勉強の効率化はある意味大事だ。
私はそれを否定しない。
特に高校生(それも一般入試で大学受験をする生徒)以降の学習においては、その分量を考えると効率よくやるという部分も必要だ。
しかし弊塾の生徒たちは小中学生である。
小中学生が勉強の効率化を偏重すると、バランスよく基礎学力を発達させることができない。
前の投稿でも書いたように、そういう意味では今日紹介した記事の結論と同じで、二項対立ではなくバランスが大事だ。
ただ、今のフェーズは(ICTが新しいものであることもあって)ちょっとデジタル化に傾きすぎのように思う。
修正が必要になってくるのだろう。