また高校野球の話。
昨日の準決勝もいい試合だったようだが、県岐商にとっては2試合続けての延長タイブレークの末に散った。
惜しかった。
勝ち負け以前に学ぶところがいくつもあるひじょうにいいチームであった。
野球を見て何かを「学ぶ」気持ちにさせてくれたのは中日ドラゴンズがとても強かった時代以来のこと。
つまり久しぶりの感覚だった。
もちろん、野球の方法論を詳しく学んでも野球をやっている人間ではないので意味がない。
そうではないところで、ということである。
いずれにしろ惜しかったがよくやった。
選手たちは胸を張って岐阜に帰ってきたことだろう。
私や弊塾と県岐商の繋がりというと・・・
卒業生に県岐商に進んだ子は何人かいたが、みな野球部ではなかった・・・が、吹奏楽の子が一人いた。
後輩たちがアルプススタンドで演奏しているのを羨ましく見ていたかも知れない。
彼女の世代はコロナで混乱していた学年だった。
彼女も、そして野球部も不運であった。
私個人と県岐商の繋がりはほとんどないのだが、私から見たら遠い親戚が県岐商が全国レベルでとても強かった昭和の昔の野球部メンバーだったと聞いている。
甲子園に行ったときは親戚じゅうで大変な盛り上がりだったと。
私自身は子どもの頃を中心に数回お会いした記憶しかないのだが、確かにあの時代の方としては大柄な方だった覚えがある。
当時は一般的にも県岐商でなく岐商呼びだったという(市岐商ができる前のことだから当然だが)。
県岐商はそんな昔から、いやもっと昔から、岐阜県の野球界では特別な存在。
公立とか私立とか地元の子がほとんどとか県外の子が多いとかそういう問題でなく、岐阜県の野球界にとって歴史的に特別な存在。
これは今後たとえば岐阜県内に今でいう大阪桐蔭や横浜のような高校が現れない限り不動の地位だろう。