四半世紀後の答え合わせ

受験生は進路選択の時期だ。
私立・国立は今週の学校の懇談で出願先が正式に決まり、来月の学校の懇談では公立高校の出願先も決まるだろう。
(なお、公立高校入試の独自検査に高校側からのいわゆる「声かけ」をうけてエントリーする生徒は、例年もうこの時期には出願校は決まっている)
これから先、彼ら中3生は人生で選択の連続を経験していくだろうが、その選択の何が幸いするのか分からない話。
答えが四半世紀後に出ることもある。
Kengakujukulogo2023 
この塾を開こうとした当時(1997年)、もうとっくにバブル経済は終わっていたが、世間には今ほど貸店舗・貸物件の類がなかった。
大垣市内をいろいろ探し回って、塾を開くのに適した貸物件はあまりないというところで開業できるかどうか行きづまってしまった。
Kengakujukulogo2023 
そんなあるとき、売地の看板を見つけた。
大垣市福田町104-3。
ここだ。
Kengakujukulogo2023 
いろいろ試算して、下手に店舗を借りて賃料を払うのも、土地を買うお金を借りてそれを返済するのも月々の支払いは同じくらいだということになり、思い切ってここの土地を買うことにした。 
Kengakujukulogo2023 
若造にとって(当時は若かった)、安くない買い物だった。
バブル崩壊から7年ほど、まだ今ほどは地価は下がっていなかったし(年々大きく下がっている最中という感じだった)、今と比べれば金利も低くはなかった。
返している最中は「自分はだいぶん損をしたんだろうか」と思うときもあった。
ようやく返し終わったときの達成感は確かにあったが、それでも「あのときの選択は正しかったのだろうか。物件を借りたほうがよかったのだろうか。といっても当時は実際のところ『なかった』のだ」などと思っていたものだ。
Kengakujukulogo2023 
それが、である。
Kengakujukulogo2023 
3年前に倒れた。
倒れている間、塾は営業できなかった。
そして復帰できる見通しも全く立っていなかった。
(というか大方の見方はもうあいつは終わった、だっただろう)
復帰どころか、倒れた当初は命もどうかという状態だったのだ。
とある界隈では「死んだ」という話まで流れていたと後で聞いた。
そんな状況で、もしここを借りていたら、残された家族はここを撤収していただろうと思う。
賃料ばかりが毎月出ていくことになって、本人は病院の中でどこまで回復するのかもわからなかったのだから。
しかしここは実際には私の持ち物だから、家族も私の許可なく売却まではできない。
Kengakujukulogo2023 
そして、まわりも本人も驚くほどの回復ペースで塾を再開できることになり、この土地が、この校舎が自分のものであることが役に立つ日が来た。
初めて「買っておいてよかった」と何の留保も妥協もなく、心の底から思えた瞬間だった。
もし買っていなかったらこの校舎は今頃なかったかもしれない。
病院で私が意思をまともに疎通できるまでになった頃には、家族が「塾はきれいにかたづけて引き払っておいたから安心してリハビリして」といっていたかもしれない。
病院を出たころには、私の居場所はもうなくなっていたかもしれないのだった。
Kengakujukulogo2023 
幸い、そうならずに済んだ。
1997年の大きな一つの決断が2021年に生きた。
あのときの「買う」という決断が、約四半世紀ののちに役に立ったのだった。
普通、どんな商売でも開業するのにいきなり不動産を買ってやる人はあまりいないだろう。
どこかを借りてスタートし、しばらくして軌道に乗ったら校舎を建ててという流れはあるかもしれないが。
そもそも、銀行がよく貸してくれたものだ。
あのときの担当者氏には本当に感謝している。
私自身、今から塾を開くとしたらあんな無謀な開業はしない。
あの頃の私は確かに「無謀」だった。
昨日の日銀総裁ではないが、実に「チャレンジング」だった。
Kengakujukulogo2023 
そのチャレンジングな若い私が、今の私にくれたプレゼントがこの塾の土地・建物だと思っている。
ありがたく使わせてもらっている。
海のものとも山のものとも分からない自分についてきてくれた塾生のみなさん、支持してくださった保護者のみなさまに感謝しながら。 
Kengakujukulogo2023
来年7月でこの塾は27周年を迎える。