8月31日をもって、かねての予告通り平和堂ノースウエスト店が閉店した。
百均でちょっと足りないものを買おうと思って出かけようとして、改めて閉店していたことを思い出す。
ありがとう、ノースウエスト 岐阜県大垣市で閉店セレモニー、常連客「心にぽっかり穴」:中日新聞Web https://www.chunichi.co.jp/article/1126554
これは先日の記事だが、都会の百貨店の最後の営業日のように最後は入口のあたりに従業員さんたちが並んで人も集まって盛大に終えたようだ。
なんだかんだ、地域で愛されてきた店。
私もときどき買い物をした。
弊塾ができる前からあったものがまた一つ消えていった。
弊塾の前、セルフ石油のある交差点から日産のある交差点までの通り沿いを見ると、1997年の弊塾開業時と比べると建物は増えたが、むかしから変わらず存在しているところは少ない。
変わったものの中には、消えたものや全く姿が変わってしまったものから名称だけが変わったのものまである。
北から見ていこう。
いま「岐阜日産」になっている店は、もとは日産プリンスだったはずだ(まあこれは販売会社統合の都合だからそのまま存在しているとカウントしてもよいか)。
これは日産プリンス店として弊塾開業前からずっとあるが途中で改装はしている。
田んぼの中を南に進んで北条クリニックはむかしはなかった。
斜め向かいのセブンイレブンは28年前からコンビニではあるがタイムリー→ココストアと変遷し、先日には新店舗が同じ敷地内の手芸センタートーカイ(開業時にはトーカイはあったのだが)の跡に移動して建てられたのは、今の人たちも見てのとおりである。
あの交差点にはむかしは信号がついていなかった。
セブンイレブンの向かいのマンションは昔からあったが1,2階のテナントは変わっている。
セブンイレブンの南隣のコインランドリーはクルマ屋だった。
そのさらに南のトラックステーションのようなところは開業時からずっとある。
向かいの美容院はなかった。
反対側に戻っていまauのあるところにはむかし焼き肉屋があった。
また反対側に戻って1階に塾や床屋がテナントとして入っているアパートはまだなかったはずだ。
その南の大きな民家はあった。
シャトレーゼは当然なかったことは知っている人が多いだろう(ここも焼き肉屋だった)。
このあたり、かつては携帯電話ショップ通りではなく、焼き肉屋通りだったのだ。
思えばあの業界、この30年間で狂牛病騒ぎ、covid-19(新型コロナ)と二度も嵐がやってきて大変だったと思う。
ほっともっとも当然なかった。
この通りで最後まで残っていた田んぼだった。
DoCoMoショップができたのも弊塾ができたあと。
弊塾の向かいのつちやはあった。
弊塾すぐ北の不動産屋さんは弊塾とほぼ同時期に着工。
完成・営業開始は弊塾のほうが早かったか。
そして1997年7月開校した弊塾がある。
最初は2階部分がなかったという意味では厳密に言うと「そっくりそのまま」ではないということか。
弊塾の南側は空き地で弊塾から角の時計屋さんの建物が見えた。
つまり角の時計屋さんは弊塾より前に既にあったということだ。
その向かいのパナソニックの電器屋さんは、かつては工具の会社だった。
道路を挟んで南側のソフトバンクショップもなかった(前も書いたがあの辺りはノースウエストの駐車場だった)。
その向かい、平和堂ノースウエスト店は「ヤナゲンノースウエストショッピングセンター」として存在していた。
その南のフィットネスクラブはヤナゲンノースウエストショッピングセンター開業とともにできた建物だが、最初は「薩摩屋書店」という書店だった。
薩摩屋もツタヤになってからもたまに本を買いに行ったのを覚えている。
平和堂の向かいに並ぶ複数のビルは約30年前からすべて存在した。
が、1階に入っているテナントの多くは入れ替わっている。
その南の寿司屋さんとクルマ屋さんもあった。
さらに南の平屋のテナント群もあったが、入っている店は入れ変わっている。
その向かいの歯科医院はなかった(ここもノースウエストの駐車場の一部だった)。
その南のガソリンスタンド(セルフ石油)はあった。
ここは私が子供の頃、まだ福田町に住んでいた幼少の頃からあったのだからすごいものである。
そのGS向かいのビルもあったんだか、当時はカメラ屋さんだったはずだ。
交差点を挟んで南にはメガネ屋があった。
・・・ということは建物はそのままだが中身が変わっているということだ。
とんかつ屋のところは何もなかった。
だいたいこんな感じか。
だから「そのまま」残っているというと南からガソリンスタンド、クルマ屋、寿司屋、時計屋、賢学塾、トラックの給油所みたいなところ、日産ぐらいか。
街並みはどんどん変わる。