ノーベル賞

昨日からノーベル賞のニュースで世間はわいている。
確かにめでたいことである。
おめでとうございます。


ノーベル生理学・医学賞に坂口志文氏 「制御性T細胞」の研究とは | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20251006/k00/00m/040/235000c


滋賀県長浜市出身。
ここからも近く、それだけで親近感が湧くというものである。
特任教授をされている大阪大学が盛り上がっているようだが、ご出身は京都大学とのこと。
京大は理系科学に強いなあと改めて。

あちこちで指摘されているが今回の坂口先生の業績も含め、近年ノーベル賞等で評価されている日本の理科系研究はほとんどが20世紀(から)のもの。
21世紀初頭の改革で「国立大学法人」というしくみになってから、特に国立大学の研究環境は一変している。
もちろん悪い方向に、だ。

基礎研究は直ちに社会の役に立つ何かに化けない。
だからといって「目に見える成果が出ていない」と切り捨てていては、研究分野が土台から揺らぐ。
今、実際に揺らいでいる。
ノーベル賞が科学を語る上ですべてではないのは当然として、十年後、二十年後には日本からノーベル賞受賞者なんてめったに出ない、縁がないという時代が来るのだろう(実際かつてそんな時代もあった)と思う。
現在すでに論文数や引用数で大きくおくれをとっている統計が出ているのだから、そう考えるのが自然であろう。

21世紀初頭からノーベル賞受賞者がどんどん増えて、毎年のように日本の誰かが受賞するようになった感じさえあるが、20世紀後半までは受賞者がほとんどいなかった。
文学賞の川端康成、大江健三郎と平和賞の佐藤栄作を除けば、1900年代には5人だけ。
それが2000年(これは厳密には20世紀最後の年になるが)、白川英樹がとって以降、去年の被団協の平和賞を除いても約20人の受賞者が出ている。

繰り返すが、ほとんどが20世紀の業績である。

21世紀に入ってからの停滞を世間が感じるのは数十年先のことだということである。
1900年代のように、いやそれ以上に日本人にとってノーベル賞が珍しいものになっているかもしれない。

   

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