ウチの塾の隣には【昔話】

ウチの塾の南隣には、数年前まで、

京都に本社がある大手進学塾の教室があった。

ちなみにその塾がやって来る前は、石材販売会社のオフィスだった。

その会社が出来る前は空き地。

つまり、最初は塾として建てられたビルではなかったのだ。

聞けば、もともとは角の時計屋さんから隣の不動産屋さんまでが

一枚の田んぼだったようだ。

それを買いとって4つに仕切って売りに出したのが隣の不動産屋さん。

北端は自社の事務所にし(て、今も店を構えていらっしゃる)、

南端の角地は時計屋さんが買い(今も店をやっていらっしゃる)、

その北側、つまりウチの塾の南隣の土地は、

東京に本社があり、当時は赤坂に支店を構えていた

石材業者さんが買った。

我が塾の土地は残りの1枚だったのである。

北から通り沿いに、不動産屋-塾-商社-時計屋という並びでは

ウチが一番騒がしくて迷惑になってしまうなあと思いつつ、

落ち着いてやれそうな場所だと納得して選んだ土地だった。

そう聞かされて買った土地だったが、

14年前、ウチが塾を建てたときには

角の時計屋さんとウチとの間には、まだ何もなかった。

1年後、石材業者さんが現在も残る3階建てのビルを建設。

13年も前のことだから知る人は少ないだろうけど

あの建物は1階が(天井の低い)ガレージのような物置場で、

玄関は2階にあった。

その後、石材業者さんが事務所を引き払い、

10年ほど前に京都から(先ほど述べた)進学塾がやってきたとき、

1階を事務室と教室に改装して玄関を設け、

敷地の奧に自転車置場を作り、

通りに面したところに看板と掲示板を作ったのである。

当時は塾の隣にどうしてわざわざ塾を出すかなと

不思議に思ったものだ。

都会の駅前ならまだしも、土地も有り余るこの田舎で

わざわざ隣接して塾を作る意味があるのかと。

しかもウチのような小さい塾の隣に

関西では有名な全国有数の大手進学塾が来たのだから

いったいどういうつもりなんだろうと思ったものだが、

そんな環境にも、やがて慣れてしまった。

京都の会社らしい(?)、本音と建て前の使い分けが「うまい」会社で

従業員は道で会えばいつも私に対しても挨拶を欠かさなかったし、

数年前、閉鎖して撤退するときまで、ウチに挨拶に来た。

京都流の「丁寧」というのはこういうことを言うのかと

やや驚いた記憶がある。

挨拶と言えば、ウチの塾の生徒たちがよく挨拶をすることに

隣は驚いたらしく、

広告に「挨拶運動をおこなっています」なんて載せてきたときには

ひっくり返りそうになった。

それを見た(のだろう)、地元大手の某塾まで

「挨拶云々」と広告に書いてきたときには、

本当にひっくり返ってしまった。

ウチの塾が(園芸部の活動のおかげで)花を欠かさず植えるので

隣も花を植えていたが、やがて枯れてそのままになった。

京都の本社から「隣のやっていることは全部やれ」と

お達しが来たのかもしれないが、

言われてやらされることはなかなか長くは続かないものだ。

塾どうしが隣接する、つまり子どもたちが入り乱れる環境にあって

トラブルもなかったわけではないが、

当時の隣は基本的に丁寧な対応だったし、

当時の隣の現場責任者には、

トラブルを起こさないようにしたいという意思が感じられたし、

既に相手は去っており、もう終わったことでもあるので、

それはここには書かない。

 

件の塾は、私立中学受験ではそれなりの成果を上げていたようだが

やはり場所に問題があったのではないだろうか。

大垣で、私立中学受験をメインとするなら

大垣駅の近くに立地すべきだっただろう。

今もって、なぜうちの隣に来たのかは分からない。

なぜ大垣に出てきたのかは、分かるけど(苦笑)。

 

そんな昔話をしたくなったのは、

7月1日が賢学塾の創立記念日だからである。

1997年7月1日

両隣にまだ建物が建っていない状態で

ぽつんと寂しく平屋の校舎がオープンした

あれから、まもなく満14年。

考えてみたら、今の中3生でさえ、賢学塾ができたときは、

まだ1歳の赤ん坊だったのだ。

月日が経つのは、本当に早いものだと思う。

いろんなことがあったが、変わらずこの塾がここにあることは

ひとえに卒業生・塾生とその保護者の皆様のおかげであるし、

地域の皆様のおかげ。

どれだけ感謝してもし尽くしたと言うことはない。

 

数年前、隣の塾に通っていた生徒たちは

懐かしくなってふらっとこのあたりに立ち寄っても、

そこに自分の通った塾は、もうない。

しかし、賢学塾の卒業生にはそれが出来る。

立ち寄らなくても、前を通りかかって、

当時を思い出して苦笑することだってできる。

どうでもいいことかもしれないし、

実際、どうでもいい人もいるだろうが、

そんなどうでもいいことに私はこだわっていきたい。